20年前不登校だった私が体験談を語るブログ

「行きたくない」を「生きたくない」に置き換えて

人形を椅子に座らせるより、海老原君をブランコに座らせる方が何倍も楽しかった。

シルバニアファミリーを見ると思い出す
これ、あんまり好きじゃなかったなー、って。

幼少から10代にかけて、私の好む遊びは大抵男子が好むような事ばかりだった。

木登り、入り組んだ路地裏を走り回る探検、アスレチック、秘密基地作り、ファミコン

小学校の頃、同じクラスの男子の海老原君をブランコに座らせて自分は同じ座面に立ち、吹っ飛ぶ勢いの立ち漕ぎをして海老原君を泣かせた。彼には悪い事をしたなと思うけれど、二人分の重力と遠心力でいつも以上に高く上がるブランコはとても楽しかった。

ままごとや人形遊びやお絵かきは苦手中の苦手

真っ白な紙を手渡され多彩な色の揃ったクレヨンや色鉛筆を持たされ「何でも好きなものを描いてごらん」と言われるのだけれど、そもそも書きたいものなんて無い、困惑しかない。

「何でも好きなものを」というフレーズで子どもに選択権を与えた気になっている大人の皆様には是非、そもそも描きたいものなんて無い子どもだっている事を知って頂きたい。

ままごとも、よく分からない演技を強いられてただただ恥ずかしいだけだった。

人形遊びに関しては「ただの動かない人形」の一体何がどう面白いのか

私は中流家庭に育った一人っ子の女子だった為、親戚や親からそういう類の物をふんだんに与えてもらっていたし、女子の間では当然のように行われていた遊びだったので、恐らくそこには心を豊かにする大そう楽しい何かがあるのだろうとは思うのだけれど、本当の面白さを知るよりも先に大人になってしまったクチである。

 

人形を椅子に座らせるより、海老原君をブランコに座らせる方が何倍も楽しかった。

 

そんな調子のまま大人になったので
当然ながら私には女性の友達が非常に少ない

そもそも友達自体が圧倒的に少ないのだけれど、とにかく男女比率のバランスがおかしい、20:1くらいの男女比だと思う。

20代そこそこの頃は

「そんな女子って変かな・・」とか
「周りから見たら男の子とばっかり遊んで嫌な女に見えるかな」とか
「男女の友情は成立しない」とか

なんかそんなありふれた色々に惑わされて少しは気にした事もあったけれど、いつの頃からかどうでも良くなった。

 

だってしょうがないやん
シルバニアファミリーまじでおもんないねんもん(※あくまで個人の感想です)

男女の友情の成立不成立って何なの、性的な事が絡んだら友情じゃないとか下心が云々とか?

相手が同性でも
「コイツと付き合ってなんか良い事あるかな」
「おもろいかな」
「一緒にいて楽しいかな」
「自分にとって良い影響を与えてくれるかな、悪い影響を与えてこないかな」
「困った時相談乗ってくれるかな」
「危害を加えてこないかな」
「変な宗教に誘われたりしたら付き合わないでおこうかな」
とか考えると思うんだけど、これは下心じゃなかったら何なの?

同性でも友情の成立しない関係なんてごまんとある。

なんて事を考えながら「来るもの選別、去るもの追わず」で好きにやってて
気が付いたら先の男女比になってた。

その比率をふと感じる時、私は自由だなあと思う

良いか悪いかは別として。