20年前不登校だった私が体験談を語るブログ

「行きたくない」を「生きたくない」に置き換えて

杉田水脈という人の生産性と、私なりの生産性の相違について

どうもこんばんは

杉田水脈という人の
『LGBTは生産性が無いから社会の迷惑』
という発言についてなんですけど

生産性を掲げて一定数の人を殺しにかかるこの考え方
これ何なんですかね
政治の事よくわかんないんですけど
生産性が無いって言ったら誰かからお小遣いでも貰えるシステムなんですかね

とにもかくにも杉田水脈という人は、地球上に生存する70億の人間が『性行為のみ』でここまで増えたと思っているのだろうと考えるのが妥当でしょう

思考回路としては
『性行為→出産→性行為→出産(以下ループ)→70億人』
みたいな事ですね、大丈夫か。

LGBTや障害当事者、生き辛さを抱えている人が、批判・論破されやすい手法として『生産性が無い』という言葉は定石のように使われます。

不登校の人も、社会不適合という不適切な烙印を押されている時点でこれに該当するでしょう、だから親は心配してしまうし、当事者も世界の終わりみたいな事になる。

ですが私はこれについて「果たしてそうだろうか」という疑問を持っています。

 

ここで私なりの『生産性とは何か』について少しお話したいと思います。

 

狩猟に始まり、土地を耕すと自給自足出来ることを発見し、土器を作る文化から石器や鋳型作りに進化し、家畜・養殖を行い、なんやかんやで農業、漁業、加工、建設、医療が発展してそれらのお蔭で人口が増加したのが現在の人間社会です。

沢山の人が知恵や知識や技術を共有し合い、支え合い、文化が生まれた事で、私達は生きながらえているのではないでしょうか

生まれてきた人間が全員『出産可能な年齢になったら全員セックスと出産しかしない』という知能しか無ければ、人間なんて今頃地球に1人も残ってないでしょ。

人間って、例えばフグとかタランチュラとか猛毒があるものでも必死で毒を抜いて食べるじゃないですか

道端に生えてるキノコも雑草も貪欲に口にして家畜の内臓も捨てずホルモンにして『知恵と技術と協力』で文化に取り入れ糧にして生存してきたのが人間でしょ

『生きられない世界でどうやって生き延びるか』
それを考えてきた先人がいるから今がある

『生産性』というのは、このように時代に応じて柔軟かつ多様な工夫で進化してきているものであり

『生きられない世界でどうやって生き延びるか』という多様な工夫が産まれる発端には多様な生き辛さを持った人達が存在していたと考えます、LGBT当事者や障害当事者が全く関与していない訳がない。

ですので『生産性』は現代社会に照らし合わせて有る無しで切り捨てる為に使う言葉ではないと考えます。

福祉だって、前述した通り人の知恵と工夫から生まれたものです
それらを忘れてしまったら人間は滅びます

時代に応じた知恵と進化が無ければ、現代に辛うじて残ってる人間はまだ全員全裸で土器作ってるでしょう。インターネットも国会議事堂も存在しないでしょう。

でも、実際はそうじゃない

その知恵の恩恵をあの杉田という人も多分に受けているはずなのに

それなのに
今の技術も文化もぜーんぶ初めからあった事を前提として

『父と母が性行為して自分が産まれた→自分も性行為して子ども生産した(自分尊い)→性行為で出産できない人は生産性云々←今ココ』

 

これは一体どういう事でしょう

 

以上です。