20年前不登校だった私が体験談を語るブログ

「行きたくない」を「生きたくない」に置き換えて

16歳で一人暮らしをしながら引きこもっていた女の子のお話 ~事実は小説より奇なり~

東日本大震災の時、引きこもりの人は家から出たのだろうか?
それとも引きこもりスピリッツを貫いて、家もろともだったのか・・・
という事が、6年経った今でも物凄く真剣に気になっている元不登校児のみつまりです、お久しぶりです。

メインブログの方では色々書いているのですが、こちらは1ヶ月ぶりの投稿です。

さて、9月1日は子どもの自殺者が最も多いという情報がここ数年で広がり、昔から支援をしている団体を筆頭に、大手新聞社・大手ネットメディア、私のような素人ブロガーまで「ちょ!自殺まってまって!」と喚起する記事も非常に増えたように思います。

それでもなお、ひきこもり等が減ってきているという体感はありません。

40代50代のひきこもりに関する相談件数も増えているとか。
増えているっていうか、元々若かった層が高齢化したという事なんですけれども、なぜここまで長期化するのかというと「相談には基本的に本人が来なければいけない」という支援機関が多いため、そこで進路(退路?)を断たれる人がかなりの人数いるのではないかなというのが私の想像です。

私自身が不登校だった当時も、親がどこかに相談に行こうとして、ご本人が来てくれなければ相談に乗れませんと断られたケースが多々あったと記憶しています。

まあ何というか、私も困っていたので「じゃあ自分が行くしかないのか」となり、私の場合はそれで動いたので、あまり参考になる話ではありませんが

当時、同い年位の人に遭遇する事や
「平日の昼間に子どもが歩いていて変に思われるのではないか」等の強い恐怖心から
外に出る事すらままならなかった私は

始発近い時間の電車に乗って現地まで行き
その支援機関の相談時間まで数時間ビルの陰で待機し
相談が終わったら再び人気の無い時間まで待機して
電車の後部座席の端の端に乗って帰る
みたいな事をしていました。

『当事者が自力で来い』というのは
シンプルに「当事者が外に出るきっかけになる」という意味で言えば良い事かも知れませんし「家にいてもお医者さんに見て貰えるんだったら」という風に思っていたら
確かに家から出なかったかも知れないなーとも思いますが、当事者が外を出るというのは上に記したようにとんでもなくハードルの高いものです。

支援機関・支援者の数に対して当事者の数が多すぎる事や、自宅介入の難しい家庭もあるでしょうが、せめて希望している当事者や家庭に対しては、第一歩外に出るまでの支援としての自宅介入は必要なのではないかと考えます。本人が口頭で支援を希望していないと言っていたり、望んでいないように見えても、好んで自宅に居るのではなく「外に出られない」のであれば、その事実自体がSOSを発していると考えるべきだと思います。 

そして間違い無く言えるのは、私が最終的に外に出られるようになったのは
始発と終電に乗る事を頑張りカウンセリングを受け続けたからではありません。

じゃあ外に出られるようになったのはなぜかというと、幸運な事に友人に恵まれたからかなと思っていますが今回はそのお話では無いのでその友人との出会いに関してはこちらからどうぞ

『岡崎に捧ぐ』山本さほ ~変わりゆく時間の中で変わらない者の存在に救われた私達のお話~ - ケーキのフィルムをペロペロする奴は大体友達

 

 

話を戻します。

二ヶ月ほど前、内観療法という心理療法の体験談を書きました。

onorenomai.hatenablog.com

こちらの記事には書きませんでしたが、実はこの監禁話には後日談がありまして・・・
同じ部屋で一緒に監禁されていた、知らない人のうちの一人がたまたま私と年齢の近い女の子だったのです。
私達は監禁中、小さな紙きれに電話番号と住所を書いて、カウンセラーの目を盗み、こっそり連絡先を交換しました、アルカトラズか。

 

その子は某他県から大阪に出てきた一人暮らしの16歳で

今考えると、経済的な意味ではなく炊事洗濯掃除買い物などどうやって生活していたんだろうと思うんですけれど
とにかく、その一人暮らし先で1人で引きこもっていたのです。

本人曰く、実家がとある温泉地で大きな宿を経営していて
結構なお金持ちだそうで、親がお金を送ってくれるので
お金には不自由していないとの事

その子も私と同様に「外に出るのが怖い」子だったのですが
私とは別次元、タクシー移動で難局をしのいでいました。

今でも強烈に印象に残っているのはその子の面影

アムラー大流行により皆が茶髪でけばけばしい装いだった時代に
黒髪ロングヘアで色白で華奢で儚げで・・・そういう外見は今では珍しくありませんが、当時はある意味新ジャンルのとても綺麗な子でした。

一人暮らしで学校も行っていないし仕事もしていなかったので
いつ寝てるのか起きてるのか分からない生活

ご飯をほとんど食べず、その代わりに
当時販売されていた煙草の中で一番きついとされていた
缶ピースという物を嗜好品としてずっと吸っていました。

そして、凄く寂しがり屋さんでした。

「押しの弱そうな綺麗な女の子・寂しがり・一人暮らし」
あと、今考えると
自分を大切にする方法が分からない子だったのかなと思います。

色々と揃っている彼女は、タクシーに乗るたびに
タクシー運転手と密な関係を結ぶようになり、彼女の自宅は
何人かのタクシーの運転手の性処理兼休憩所になっていました

繰り返しになりますが、当時の彼女は16歳でした。

その子とは、私が後にバイトを始めたり
何だかんだで忙しくなって気が付いたら連絡が取れなくなっており
自宅にも直接行ってみたのですが、既に引き払われた後でした。

 

と、何を伝えたいのかよく分からない記事になってしまいましたが
彼女が自力でタクシー通いをしながらカウンセリングに通っていた事は
果たして彼女にとって良い事だったのか
自宅への介入があればもっと違う形になっていたのではないか
という事を、今でも考える時があります。

どちらにせよ、彼女の場合はタクシー運転手と私以外、頑として自宅に入れなかったと思いますが

もう40歳が目の前に迫っている私の人生で、彼女と過ごした短い日々は
時と共に薄れゆく記憶の中で、いまだに夢か幻のように非現実的で
まるで小説の中の出来事のようだったと感じる思い出の一つです。