20年前不登校だった私が体験談を語るブログ

「行きたくない」を「生きたくない」に置き換えて

『不登校=親が甘い』という考えが甘すぎる件 ~不登校サバイバー~

高校球児は評価されるのに不登校児が評価されない事に納得いかないみつまりですどうもこんばんは、初めましての人は初めまして。

 

大人になった現在、たまに「昔学校に行ってなかった」という話をすると、学校行ってた派のうち半数くらいの人から
「うちの家は厳しかったから、そんなことしたら叩いてでも引きずってでも外に出されて学校行かないなんて絶対許されなかったと思うわー(笑)」

という反応が返ってくるのも、前回の冒頭に記した元不登校あるあるの一つかなと勝手に思っています。

一応私も社会性を備えましたので、そういう反応を頂いた時は大体
「そうなんだー学校行くのも楽じゃないんだねあははははwwwwwwwwww」

などと返す訳なんですけれども

うちの両親も間違いなく
『学校行かないなんて絶対許さない』という人達でした。

 

学校行かないと宣言した最初の頃は、親に泣きながら私の服や髪を文字通り掴んで引きずり回されましたし、私が学校へ行かなくなって一ヶ月で父親は真っ黒だった髪が真っ白になったし、母親には「学校に行かないくらいなら死んでくれた方がマシだ」とか「貴方がそんな風になったのはお母さんの責任だから一緒に死のう」と言われて寝込みを襲われ本気で殺されそうになった事もありました。

 

それでも私は行かない方を選びました。

 

両親に苦労を掛けた事は今でも申し訳なく思います。

私は両親の事が嫌いなわけではありませんし、もちろん心配などかけたくありませんでした。

私には兄弟がいない為、家族といえば父と母のみ。たった3人のかけがえのない家族、両親にとってはたった一人の娘です。

それなのに、そんな親不孝を好んでする訳がありません。

当時は、自分が不登校になった事そのものよりも、目の前で悲しんでいる両親の姿を見るのが何よりも辛い事でした。


しかし20年経った今になって思うのは

私がただ学校に行かなかっただけで親がなぜそこまで絶望にくれる必要があったのか。

ごめんねと泣きながら寝込みを襲う親まじサイコホラー。

 

言いすぎましたすみませんごめんなさいもちろん今でもかけがえのない家族に変わりはありません。

ですが、それにしても『学校行かないくらいなら死んでくれた方がマシ』って今改めて考えると凄まじい発想じゃないですか?


学校に行かない事は死に値するほど罪深く不幸な事なんですか?

 

冒頭の「うちは厳しかったから〜」と話していた人も、厳しさゆえに『学校へ行かなかったら殺される』という事を本能的サバイバル能力で察知していた為学校へ通っていたのでしょうか?

それとも私は殺されかけたけど死んでいないので、うちの家庭はやはり甘かったのでしょうか?

 

なんて疑問を投げかけてみましたが、答えは明白。

親の甘い厳しいなど関係ありません。

不登校の背景に家庭の機能不全がある事例の多い事は重々承知しています。

でも、家庭の事情や理由が何であれ、学校へ行かない子は行かないし行く子は行きます。

そしてそれのどちらが良いでも悪いでもなく『本人が選択した道』ただそれだけの事です。

 

しかし親が我が子を殺そうと考えるまで追い詰められるのは「学校に行かない=皆と同じ事が出来ない=普通ではない=異常=排除」みたいな連想ゲームのような固定概念が個人の頭の中に出来上がっている事、そしてその固定概念で親まで一括りにして評価されてしまう事にあると私は考えています。

自分や我が子や他者を前述したような理由で評価する事は、時と場合によれば自分自身の首を絞める事にも繋がります。

多数派に属している時には気付かなかった無意識の評価は、立場が変化した途端、回り回って自分を追い詰める結果になります。

私は過去「自分自身が順風満帆な人生を送ってきたのに子どもが突然不登校になって非常に混乱している」という保護者のお話を何度も聞いた事があります、私の両親もそのケースだったのだろうなと、今では思っています。

 

そして、この様な状態に陥っている家庭は現在無数にあると私は考えています。

色んなケースがあると思いますので一概には言えませんが、当時の私は少なからず不登校サバイバーだったと思います。