20年前不登校だった私が体験談を語るブログ

「行きたくない」を「生きたくない」に置き換えて

『コンビニ人間』村田沙耶香 - 社会不適合者の内側から見た景色 -

23年前不登校を生業としていたみつまりですどうもこんばんは。

本日は、表題『コンビニ人間』の感想を記事とさせていただきます。


これです

この本は、社会の多数派になれない女性と男性、両方の視点を通して現代社会を描いた作品です。

不登校・ひきこもり・ニート・対人関係が苦手・トランスジェンダー・障害等、社会から「異質なもの」として視線を向けられた・向けられそうだと感じながら回避してきた経験のある人は、少なからず共感できる部分があるのではないでしょうか。

世間で言われるところのいわゆる社会不適合者を誇張して、文学に昇華させた作品ですのでとても読みやすいのですが、描写が中々容赦ないです。

特に私は著者・作中の主人公とちょうど同い年で境遇や考え方もよく似ている為、良いんだか悪いんだか非常に引き込まれました。お読みになる際はご注意ください。

コンビニ人間』村田沙耶華 

多様な社会
個性を認める
ありのままの他者を受け入れる

なんていうキーワードを最近良く耳にするけれど
これには大きな矛盾がある

揺るぎない暗黙の了解として、枕詞に
「常識の範囲内で」が付くから

そして、この枕詞の範疇から溢れる人の
「ありのままの個性」は
周囲から矯正を強いられ
更生のレールを敷かれ
矯正がままならなければ
あっさり排除される

排除された個性は、時にカリスマ性を生む事もあれば、個人の命を奪う事もある

コンビニ人間
RADWIMPSの楽曲『棒人間』を想起させた

以下『棒人間』歌詞引用
----------------
「僕は人間じゃないんです 本当にごめんなさい
そっくりにできてるもんで よく間違われるのです

(中略)

何度も諦めたつもりでも人間でありたいのです」
----------------

生き辛さを抱えた棒人間は、最後の最後に
「それでも僕は人間でありたい」と主張する


けれど

コンビニ人間
「コンビニでありたい」のです


いつだったか、側溝に侵入し
人を覗き見していた人が逮捕された時
その人は
「生まれ変わったら道になりたい」
と述べたという

コンビニなのに、道なのに
人間を強いられて
人間と同じ生き方をしろと言われ
さぞかし大変な思いをしたのだろう

コンビニ人間も、道になりたい人も
人間の形で生まれて来なければ
心穏やかに社会に馴染めていたのかもしれない

今はまだ、世界はそういう風にできているから。

誰も「ネットそのもの」の悪口を言わなくなった

情報処理の専門学校に在籍していた当時
インターネットが世間に普及し始めていたものの、まだまだ『ネット=アンダーグラウンド=オタク』というイメージが強かった時代
スマホはもちろん、今のようにネットで気軽に物が買えるようなシステムもなかった時代

同級生の優秀な子が「DVDをレンタルする時代はそのうち終わると思う、ネット経由で映画をダウンロードしたりテレビで映画を再生できる時代が来るよ」
と話していて

そんな大容量の映画をネットで?
しかもテレビで観られるなんて、そんな時代が来たら本当に凄いなぁ

なんて思っていたあの頃から15年
あっという間にそんな時代になってしまった
しかも持ち歩けて外出先でも視聴出来る。

 

数日前、ツイッターを介した殺人事件が
大きなニュースとして報道されていた

 

昔なら、ネット絡みの事件が起きる度に
「これだからインターネットは危険」
「ネットをしてる人には危ない人が多い」
「やらない方が良い」
みたいなズレた意見がニュースと同じボリュームで聞こえて来ていたのだけれど、今回はそんな気配はほぼ無い

 

今、無料でPCやスマホから誰でも視聴出来る「一般ユーザー向けのインターネットTV」の台頭が始まっていて、その先駆けとも言えるAbemaTVでは、元SMAPの3人が出演する72時間生放送のネット配信がただ今絶賛放送中

 

誰も「ネットそのもの」の悪口を言わなくなった


そりゃ、莫大なお金を生むものの悪口は言わないよなぁ

 

このまま、アンダーグラウンドだったものがメインストリームになってしまうのかなぁ

 

「凄いなぁ」と「少し残念だなぁ」が私の中に共存している。

 

ちなみに、ツイッター上では今回の事件が報道されてもなお
「#死にたい、#自殺募集、#一緒に死んでくれる人、#殺してくれる人」
というタグを付けて発言をする人で溢れている。

人形を椅子に座らせるより、海老原君をブランコに座らせる方が何倍も楽しかった。

シルバニアファミリーを見ると思い出す
これ、あんまり好きじゃなかったなー、って。

幼少から10代にかけて、私の好む遊びは大抵男子が好むような事ばかりだった。

木登り、入り組んだ路地裏を走り回る探検、アスレチック、秘密基地作り、ファミコン

小学校の頃、同じクラスの男子の海老原君をブランコに座らせて自分は同じ座面に立ち、吹っ飛ぶ勢いの立ち漕ぎをして海老原君を泣かせた。彼には悪い事をしたなと思うけれど、二人分の重力と遠心力でいつも以上に高く上がるブランコはとても楽しかった。

ままごとや人形遊びやお絵かきは苦手中の苦手

真っ白な紙を手渡され多彩な色の揃ったクレヨンや色鉛筆を持たされ「何でも好きなものを描いてごらん」と言われるのだけれど、そもそも書きたいものなんて無い、困惑しかない。

「何でも好きなものを」というフレーズで子どもに選択権を与えた気になっている大人の皆様には是非、そもそも描きたいものなんて無い子どもだっている事を知って頂きたい。

ままごとも、よく分からない演技を強いられてただただ恥ずかしいだけだった。

人形遊びに関しては「ただの動かない人形」の一体何がどう面白いのか

私は中流家庭に育った一人っ子の女子だった為、親戚や親からそういう類の物をふんだんに与えてもらっていたし、女子の間では当然のように行われていた遊びだったので、恐らくそこには心を豊かにする大そう楽しい何かがあるのだろうとは思うのだけれど、本当の面白さを知るよりも先に大人になってしまったクチである。

 

人形を椅子に座らせるより、海老原君をブランコに座らせる方が何倍も楽しかった。

 

そんな調子のまま大人になったので
当然ながら私には女性の友達が非常に少ない

そもそも友達自体が圧倒的に少ないのだけれど、とにかく男女比率のバランスがおかしい、20:1くらいの男女比だと思う。

20代そこそこの頃は

「そんな女子って変かな・・」とか
「周りから見たら男の子とばっかり遊んで嫌な女に見えるかな」とか
「男女の友情は成立しない」とか

なんかそんなありふれた色々に惑わされて少しは気にした事もあったけれど、いつの頃からかどうでも良くなった。

 

だってしょうがないやん
シルバニアファミリーまじでおもんないねんもん(※あくまで個人の感想です)

男女の友情の成立不成立って何なの、性的な事が絡んだら友情じゃないとか下心が云々とか?

相手が同性でも
「コイツと付き合ってなんか良い事あるかな」
「おもろいかな」
「一緒にいて楽しいかな」
「自分にとって良い影響を与えてくれるかな、悪い影響を与えてこないかな」
「困った時相談乗ってくれるかな」
「危害を加えてこないかな」
「変な宗教に誘われたりしたら付き合わないでおこうかな」
とか考えると思うんだけど、これは下心じゃなかったら何なの?

同性でも友情の成立しない関係なんてごまんとある。

なんて事を考えながら「来るもの選別、去るもの追わず」で好きにやってて
気が付いたら先の男女比になってた。

その比率をふと感じる時、私は自由だなあと思う

良いか悪いかは別として。

 

 

人間関係を篩(ふるい)にかけたお話 -人を切り捨てるに至るまで-

 

いまだに父方の親戚が夢に出てきてうなされる元不登校児のみつまりですどうもこんにちは。

不定期更新のこちらのブログの投稿頻度のバランスが悪すぎるのですが、気まぐれに連投させていただきます。

 

私が不登校になった原因は、イジメに遭っていたからでも仲間外れにされていたからでも体罰を受けたからでもありません。

「なんとなく校風に馴染めなかった」ただそれだけの事

ですので、直接的な学校に対してのトラウマなどはありません。

私が最もダメージを受けたのは、学校に行かないという選択をした後に、周囲の人達から手の平を返すような反応をされた事でした。

 

私の場合は、主に父親を始めとする父方の祖父母、親戚から、不登校に関して全く理解を得られませんでした。

そのあれこれはこちらの記事の後半「すべてはあとがきに」にて記載していますまたこの記事かよとか言わないで

cake-peropero.hatenablog.com

 

私は一人っ子で静かな家に育った為、親戚と盆正月に集まる賑やかなひと時が当時はとても楽しみな子どもだったのですが

学校に行かない選択をした事により、叔母から『不登校がうつると困るのでうちの子(私の従姉妹)に近寄らないで』と盆正月の集まりから排除され、その後の数年間は「排除されたのは自分に原因があるのだ」と感じ、何とかその人達との関係を取り戻したいと躍起になりながら社会復帰の道を辿り大人になりました。

 

私は障害当事者との結婚離婚を経験していますが、結婚当時にも婚約者の障害を理由に父方の全員から猛反対を受けました。

 

ただ一人、母親だけが応援してくれ父方親戚勢力の前にたった一人で立ちはだかり盾になってくれました。

父方と二世帯同居で生活ごと完全アウェーの中でそこまでしてくれた母親には今でも頭が上がりません離婚してしまってごめんなさい本当にごめんなさいごめんなさいごめ(以下略)

 

すみません話が逸れました

 

あまり事情を知らない人にこの話をすると

「男親っていうのはね…幾つになっても娘の事が心配なものなんやで(微笑)」

と諭すように言われる事が多々あり、私も

「そうかぁ…お父さんってそういうものなんですね(微笑)」

と返しますが、実のところうちの父親に関してはそういう類の反対の仕方では一切ありませんでしたというか私の目にはそう映りました。

『うちの家系に障害者の血が混ざる事が生理的に無理』という純度100%の単なる差別。娘の事が心配なんて100歩譲って後付けで多少はあるかも知れない?かな?くらいです。

いや『うちの家系』って…私の曽祖父山奥で猟銃自殺してるやん?叔母も統合失調症やん?叔父はアルコール依存症やん?私もあなた方から見たら欠陥品やん?その事はぜーーーーーーーんぶ棚に上げて人の事そんな風に言うのおかしくない???彼のご両親がその言葉を聞いたらどんな気持ちになるか分かんないの??あなた方も一応子を持つ親なんじゃないの???言われた側がどんだけ傷付くか分かんないの???

と思いましたが

父親は…父親もまた、おそらく「親の期待に応えなければ」という思いで生きてきたのだろうな、と、これはここ数年で気付いた事。

父親自身にはおそらく自分の考えはなく

「両親(私から見て祖父母にあたる人間)が、孫である我が娘の行動を良く思っていない」

そして

「自分の親に(良い父親になったな)と思われたい」

父親自身が自分の親に認められたい一心で、私の生き方を正したかったのだろうと思います。

当時から、父親の目には私が映っていないように見えていたのは私達の関係性が原因ではなく、私の思い過ごしでもなく、おそらくこのような生育歴が根底にあったからなのでしょう。

 

と、ここまで前フリです。

私は現在、父を除く父方の全員と関係を断っています。

私は猛反対された元夫との結婚の際、結婚式を挙げました。

身内だけの慎ましいものでなく、お世話になった方々をお招きするパーティ形式。

お式は、沢山の大切な方々に貴重なお時間を割いていただき、離婚してしまった今でも生涯胸に残る程とても有難く嬉しいひと時だったと感じています。

 

ただ、このお式は私にとってのもう一つの大きな分岐点にもなりました。

 

結婚式を挙げると決めた際、一応親戚にも招待状を送付したのです、どんな反応が返ってくるのかなという感覚で。

当然ながら父方は父親も含めて誰も来ませんでした。欠席の理由は体調やスケジュール等の関係ではなく差別的なものでした。

それを境に関係を断ちました。

この一件は、私が意図的に「人間関係をふるいにかける」という行為を行った最初で最後の行動です。

 

何とか関係を修復しようとしていた時代、ふと気付いたのです

「相手の気持ちを慮る心を持たない人と無理してまで仲を修復して何のメリットがあるのだろう」
「メリット…何もなくない??」と。

 

どれだけ話し合いの機会を持とうが分かり合えない人とは永遠に分かり合えない。

何が正しいとか何が悪いとかでなく、ただそれだけの事でそこに労力を費やすのは時間の無駄だな、と。

 

父方の祖父母は共に今も健在ですが、現在どちらとも危篤状態にありいつ死んでもおかしくありません。しかしながら、彼らが他界しても私はお葬式には行きません。
親族に会いたくないから。
子どもみたいな理由だなと思われるかも知れませんが…

もし母よりも父が先に他界した場合も同じくですが、私は一人っ子なので母を支えられる人が他にいない為、その場合はやむなく母親の心労を慮って行くかも知れません。

万が一、私が誰よりも先に死んだ場合は、母には「父方の親戚にはお伝えしなくて良い」とお願いしてあります。

ちなみに祖父母や父方の親戚は私が離婚した事も知りません。

 

今私が抱えている最も大きな懸念事項は、母が一番先に逝ってしまった時の事。

母には長生きしていただきたいです。

16歳で一人暮らしをしながら引きこもっていた女の子のお話 ~事実は小説より奇なり~

東日本大震災の時、引きこもりの人は家から出たのだろうか?
それとも引きこもりスピリッツを貫いて、家もろともだったのか・・・
という事が、6年経った今でも物凄く真剣に気になっている元不登校児のみつまりです、お久しぶりです。

メインブログの方では色々書いているのですが、こちらは1ヶ月ぶりの投稿です。

さて、9月1日は子どもの自殺者が最も多いという情報がここ数年で広がり、昔から支援をしている団体を筆頭に、大手新聞社・大手ネットメディア、私のような素人ブロガーまで「ちょ!自殺まってまって!」と喚起する記事も非常に増えたように思います。

それでもなお、ひきこもり等が減ってきているという体感はありません。

40代50代のひきこもりに関する相談件数も増えているとか。
増えているっていうか、元々若かった層が高齢化したという事なんですけれども、なぜここまで長期化するのかというと「相談には基本的に本人が来なければいけない」という支援機関が多いため、そこで進路(退路?)を断たれる人がかなりの人数いるのではないかなというのが私の想像です。

私自身が不登校だった当時も、親がどこかに相談に行こうとして、ご本人が来てくれなければ相談に乗れませんと断られたケースが多々あったと記憶しています。

まあ何というか、私も困っていたので「じゃあ自分が行くしかないのか」となり、私の場合はそれで動いたので、あまり参考になる話ではありませんが

当時、同い年位の人に遭遇する事や
「平日の昼間に子どもが歩いていて変に思われるのではないか」等の強い恐怖心から
外に出る事すらままならなかった私は

始発近い時間の電車に乗って現地まで行き
その支援機関の相談時間まで数時間ビルの陰で待機し
相談が終わったら再び人気の無い時間まで待機して
電車の後部座席の端の端に乗って帰る
みたいな事をしていました。

『当事者が自力で来い』というのは
シンプルに「当事者が外に出るきっかけになる」という意味で言えば良い事かも知れませんし「家にいてもお医者さんに見て貰えるんだったら」という風に思っていたら
確かに家から出なかったかも知れないなーとも思いますが、当事者が外を出るというのは上に記したようにとんでもなくハードルの高いものです。

支援機関・支援者の数に対して当事者の数が多すぎる事や、自宅介入の難しい家庭もあるでしょうが、せめて希望している当事者や家庭に対しては、第一歩外に出るまでの支援としての自宅介入は必要なのではないかと考えます。本人が口頭で支援を希望していないと言っていたり、望んでいないように見えても、好んで自宅に居るのではなく「外に出られない」のであれば、その事実自体がSOSを発していると考えるべきだと思います。 

そして間違い無く言えるのは、私が最終的に外に出られるようになったのは
始発と終電に乗る事を頑張りカウンセリングを受け続けたからではありません。

じゃあ外に出られるようになったのはなぜかというと、幸運な事に友人に恵まれたからかなと思っていますが今回はそのお話では無いのでその友人との出会いに関してはこちらからどうぞ

『岡崎に捧ぐ』山本さほ ~変わりゆく時間の中で変わらない者の存在に救われた私達のお話~ - ケーキのフィルムをペロペロする奴は大体友達

 

 

話を戻します。

二ヶ月ほど前、内観療法という心理療法の体験談を書きました。

onorenomai.hatenablog.com

こちらの記事には書きませんでしたが、実はこの監禁話には後日談がありまして・・・
同じ部屋で一緒に監禁されていた、知らない人のうちの一人がたまたま私と年齢の近い女の子だったのです。
私達は監禁中、小さな紙きれに電話番号と住所を書いて、カウンセラーの目を盗み、こっそり連絡先を交換しました、アルカトラズか。

 

その子は某他県から大阪に出てきた一人暮らしの16歳で

今考えると、経済的な意味ではなく炊事洗濯掃除買い物などどうやって生活していたんだろうと思うんですけれど
とにかく、その一人暮らし先で1人で引きこもっていたのです。

本人曰く、実家がとある温泉地で大きな宿を経営していて
結構なお金持ちだそうで、親がお金を送ってくれるので
お金には不自由していないとの事

その子も私と同様に「外に出るのが怖い」子だったのですが
私とは別次元、タクシー移動で難局をしのいでいました。

今でも強烈に印象に残っているのはその子の面影

アムラー大流行により皆が茶髪でけばけばしい装いだった時代に
黒髪ロングヘアで色白で華奢で儚げで・・・そういう外見は今では珍しくありませんが、当時はある意味新ジャンルのとても綺麗な子でした。

一人暮らしで学校も行っていないし仕事もしていなかったので
いつ寝てるのか起きてるのか分からない生活

ご飯をほとんど食べず、その代わりに
当時販売されていた煙草の中で一番きついとされていた
缶ピースという物を嗜好品としてずっと吸っていました。

そして、凄く寂しがり屋さんでした。

「押しの弱そうな綺麗な女の子・寂しがり・一人暮らし」
あと、今考えると
自分を大切にする方法が分からない子だったのかなと思います。

色々と揃っている彼女は、タクシーに乗るたびに
タクシー運転手と密な関係を結ぶようになり、彼女の自宅は
何人かのタクシーの運転手の性処理兼休憩所になっていました

繰り返しになりますが、当時の彼女は16歳でした。

その子とは、私が後にバイトを始めたり
何だかんだで忙しくなって気が付いたら連絡が取れなくなっており
自宅にも直接行ってみたのですが、既に引き払われた後でした。

 

と、何を伝えたいのかよく分からない記事になってしまいましたが
彼女が自力でタクシー通いをしながらカウンセリングに通っていた事は
果たして彼女にとって良い事だったのか
自宅への介入があればもっと違う形になっていたのではないか
という事を、今でも考える時があります。

どちらにせよ、彼女の場合はタクシー運転手と私以外、頑として自宅に入れなかったと思いますが

もう40歳が目の前に迫っている私の人生で、彼女と過ごした短い日々は
時と共に薄れゆく記憶の中で、いまだに夢か幻のように非現実的で
まるで小説の中の出来事のようだったと感じる思い出の一つです。

学校へ行くか死ぬかの二択を迫られている人達へ ~元不登校の私より~

 

中学3年生の頃に不登校になったみつまりですどうもこんばんは。初めましての人は初めまして。

身近な小学生に聞いたのですが、最近は夏休み期間が学校によってバラバラだとか・・・とすれば、登校日も9月1日ではなくなってきているのでしょうか?それとも登校日は一緒で夏休みの始まる日が遅くなっているのでしょうか?

もしかしたら、明日が登校日の人もいるのでしょうか?

このブログの初投稿の記事に書いた通り、GWとこの夏休みの時期には毎年、学校に行きたくない人が「学校行きますか、それとも死にますか」みたいな二択を真剣に考えてしまっているのではないか、と、心配になります。
なぜそんな事を考えてしまうのかというと、学校に行かない事を選択した20年前の私自身が、当時本当にそのような事を考えていたから・・・いや、考えていたというよりはそのような選択を周囲に迫られていたからです。

onorenomai.hatenablog.jp

こちらの記事にも書いた通り9月1日は子どもの自殺者が最も多い日だそうです。
このブログは今後も細々と続けていくつもりですが、ひとまずは、この9月1日を目途にして、少しでも今現在生きるか死ぬかの二択に迫られているご本人やその周囲の誰かにメッセージが伝わればとの思いで開設ました。

 

学校行く?それとも死ぬ?

私自身の経験を元にすると、この言葉というのは大袈裟でも何でもなく、学校でいじめに遭っている子や不登校気味の子って8月に入った時点で既に気持ち的には9月の登校の事をずーーーーっと考えていて、8月末日にもなると

「さて明日はいよいよ登校日で御座いますが、正直このまま休んじゃいたいけどやっぱりダメだよね・・・行かなかったら親が悲しむし今後もっと行きづらくなるしクラスで目立っちゃうし近所でも噂に(中略)ならば死ぬべきか。」

というような、冗談のような二択を本気で自分に強いています。

学校に行かないという選択だけで、悲しませたくない人が悲しんだり、親に寝込みを襲われ殺されかけたり(↓詳細はこちら)

『不登校=親が甘い』という考えが甘すぎる件 ~不登校サバイバー~ -

知らない人の家に監禁されたり(↓詳細はこちら)

学校に行かなくなったら知らない人の家に監禁された話 ~内観療法~ 

周囲から排除されたり、異質なものとして見られ、具体的には友達の親から「不登校が伝染したら困るからうちの子と遊ばないで」と言われたり。私の周囲の不登校経験者にも同じような経験をしている人がいるので、実際にその様な経験をしたり、そんな風になる事を予見した子が耐え切れずにこの世を去ってしまうのではないかなと私は想像します。
そして、私はそんな人達を何とか引き留められないかと考えています。

↓こちらの記事にも書いてあります。

futoko.publishers.fm

不登校新聞さんは、毎年この呼びかけを行っていらっしゃいます。

futoko.publishers.fm

 

個人的二択の回答

さて、中学3年生で不登校になり30代後半になった現在、平和に生きている私といたしましては、学校行くか死ぬかの二択問題の答えは
『学校行かない』の一択です。実際私はそちらを選びました。
と言われたところで、きっとこれをご覧になっているかたは
「そう言われても、あんたにとっては昔の事なんだから言うのは簡単だろう。」
「他人事みたいに言うのは簡単だけど、実際その後どうすりゃいいの?」
と思われるのではないかと想像します。
ですので、私の現在持っている知識の範囲内で学校に行きたくない理由別・学校に行かなかった場合のその後の生き方を纏めましたので、以下ご清覧いだけますと幸いです。

 

学校行きたくない理由がイジメ編

もし学校に行きたくない理由が「イジメに遭っている」であれば全力で逃げましょう。

逃げたら負けな気がするとか、逃げた事をまた笑いものにされたらなどと考えるかも知れませんが、あなた(ってもはや誰に対して喋っているのか分かりませんが)のコミュニティなんてショボいもんです。

学校が好きでどうしても行きたいなら別ですが、実際はそうでもなくて、でも親を困らせたくはないし皆行ってるし何となく行かないとダメな気がする・・・。という理由なら、あなたの親を困らせているのは貴方ではなく貴方をイジメている相手ですので全速力で逃げましょう。

毎日のように紛争や災害や犯罪で命を落とす人がいて、命にかかわる病気を抱えながら懸命に生きている人が沢山いるこの世界で「○○中学の△って奴が学校来なくなったんだけどwww」という話題なんて正直そこのコミュニティの人以外誰も興味無いです。

コミュニティ内だって、下手したらそこの中の多数が(仲間外れにされたくない)とかいう理由で仕方なく付き合ってる事も少なくありません。

もし暴力を振るわれていたり(言葉の暴力も含む)金銭を要求されていたりするならそれはもう犯罪ですので大人を巻き込みましょう。

具体的には、私ならばそうですね・・・例えば警察に話す、都道府県の教育委員会に電話する、それらが相手にしてくれなければその上の文部科学省に連絡。それでも無理ならその全てを録音しておいてマスコミに話しますかね・・・。相談ではなく巻き込むのです。

「いやお前、ここまで書くならもっと具体的な相談先教えろっていうかお前が相談に乗れよ。」と言われれば、ええそれはもう仰る通りなのですが私はいち経験者でありここは私の体験談を伝えるブログです。専門家ではありませんので相談には乗れませんご指摘本当に有難うございます(←これが逃げ方。現代で言うスルースキルってやつですね)

学校休んだ後どうすれば良いか分からない編

学校休んだ後どうすれば良いか分からない人、バイトはどうでしょうか。
年齢や精神的にバイトが無理ならボランティアを募集している団体も沢山あるのでボランティアという選択肢もあります。
ボランティアといっても人の為にしなければならないと言う訳ではありません、自分の為です。ボランティアは善行でなくても良いと私は思っています。家庭と学校以外に自分の所属先を作る事が目的です。
人の目が気になって、人が怖くて外に出られないなら、今は無理に出なくても大丈夫です。
ただ、あなたの所属できる場所は学校以外にも沢山あるという事だけ知っておいてほしいです。
これについては、いつか関西地域のご紹介できる先をこちらのブログに掲載出来ればと考えています。

学歴が必要だと思う編

『大手企業に勤めたくてその為にはまっさらな学歴が必要』だという人。

現時点で学校という社会集団に疑問を感じているのに一度も挫折をした事の無い人しか雇わない(そういう人達しかいない)企業や団体に所属した自分を想像できますか?しんどくないですか?

いや、もちろんこの年にもなると、年収1千万越えとかの、とんでもない年収格差がある友人もいるんですけどね・・・しかし学校に通った人が全て数千万円数億円のマンションに住めるかと言ったらそうでは無いですし、大学まで出てても何やかんやで生活苦に陥ってる人もいます。

私は通信制高校卒ですが、同級生には美容師の専門学校に進み、美容師になって現在は経営者としてヘアサロンを全国展開している人もいますし芸大に行って夢を叶えた友人もいます。

元不登校児は今 〜学校へ行かなかった大人達〜 

どうしても王道学歴レールで行きたいと考えているならそれは私には出来なかった生き方なので、それはそれで凄い事だと思います。

将来の夢が学歴必須編

『自分の将来なりたい職業の資格が学歴必須』という場合もありますね。

でも、今なら単位制高校も沢山あるし、大検からの大学受験も可能です。

昔「37歳で医者になった僕」というドラマがありまして、タイトルの通り30代後半で内科医になった人のお話だったのですが、実話を元にしているそうです。

37歳で医者になった僕〜研修医純情物語〜 - Wikipedia

という事は、将来医者になりたい場合、30代から動いて間に合うという事が実証されています。
要するに何が言いたいかというと、今あなたがいるその学校が全てではないという事。
少なくとも、生か死かを選択するに値するほど重要なものではないはずです。
私には「協調性が無い」「集団行動が苦手」などの特性がありますが、それは学校に行かなくなる以前からの特性であり、学校にそのまま行っていたところで改善していたとは思えませんし社会に自分の内面を合わせて行くより「ありのままの自分」を認めてもらえる社会の方が、自分らしく生きていき易いと思うのです。

 諦める・辞める勇気

大丈夫です、貴方が学校に行かなくなって親が困る理由なんて「社会に対する体裁」以外無いのですから(もし保護者のかたがご覧になっていたらごめんなさい)。

親の顔色を気にして生きるなら親の期待は底無しだという事を知っておいた方がいいです。今無理して学校に行ったとしても、その事については何も評価はされず「もう少し成績が良ければ。良いお友達に恵まれれば。良い進学先へ。」と続き、学校を頑張って卒業したらしたで「安定した就職先へ」という期待が待ち構えています。

そして「そろそろ結婚は?」となり結婚したらしたで「孫の顔が見たい」と言われます、この類の期待は永遠に終わりません。

自分の全人生を掛け命を懸けてまでそれに付き合う覚悟があるなら、私は決してそれが悪い事だとは思いませんし、私には出来ない生き方なので素晴らしいと思います。

弱みを強みに

社会には正規ルートから外れた道を選択して現在に至る」という部分を評価してくれる人もいます。

私がこんな風に「学校なんて行かなくていいよ!」と声を大にして言えるのも、実際に私がその道を辿ってきた「元不登校だったから」であって、普通に何の不都合も感じる事なく学校に行っていた人生なら不登校に悩む人の心は分からなかっただろうし、分かりたいと思っても「お前に何が分かるんだ」と言われたら返す言葉も無かったと思います。

私は非常に自己肯定感が低い人間ではありますが、こんなありのままの自分でも良いんだなと考えられる様になったのはこの20年の歳月でありのままの私を全力で肯定してくれる人達との出会いに恵まれたお蔭です。もし、貴方の周囲に貴方の行動を肯定してくれる人がいないというなら、ここのブログに来てもらえればと思います。

私はこちらのブログで学校に行かない道を選択した貴方の生き方を肯定し続けます。

あと、この記事の中盤で私自身は直接相談には乗れないと書きましたが、ツイッター(プロフィールの所にリンクあります)やってますのでそちらへ気軽に声をかけていただければと思います。ツイッターやってない人や、出来ない年齢の人はコメント欄(非公開)にメールアドレス等書いていただいたら出来る限りご対応します。

※2018年1月追記:お問い合わせフォーム作成しました、以下からどうぞ。

お問い合わせフォーム

 

周囲の人へ

onorenomai.hatenablog.jp

以前こちらにも書きましたが
周囲の大人達も、身近な子が学校へ行かなくなったら
まずは「登校」「通う」「学校」「スクール」という言葉から解放される事が先決だと思います。
当事者は周囲の心の機微を非常に敏感に感じ取っているものです。
不登校当時の私は「あれ?今日は学校休み?」という大人にしてみればどうという事でも無い質問をされる事を極端に恐れ、周囲に不登校が知られてしまうのではという不安から平日の日中には外を歩く事も出来ませんでした。
しかしながら、そこまで極度に不安を感じていた発端は、やはり「学校へ行っていない=異常な事」という社会の認識を周囲の対応から感じ取っていたからだと思います。

「行きたくない」という言葉を
『生きたくない』に置き換えてみてはいかがかと思います。

元不登校児は今 〜学校へ行かなかった大人達〜

 

こんばんは、元不登校のみつまりです初めましての人は初めまして。

私の周りには、現在20代〜30代の「元不登校経験者」「高校中退経験者」の友人が結構います。 

私達が学校に行かなくなった頃は、今のようにネットも普及しておらず、というかネットがまだこの世に存在すらしていなかったので、一般の人がブログやSNSで情報を発信する事など出来ませんでした。

なので、不登校になりたての頃「こんな道を外れた未来の無い人間はきっと世界で自分1人だけなのだろう」という漠然とした不安を感じていました。

今このブログをもし見てくれている人が、現在学校に行ってなかったり引きこもっていたりしている人ならば、このブログを通じて「同じ様な経験をしている人は自分一人じゃないんだ」と思ってもらえればなーと、そんな風に考えています。

という事で、本日は、冒頭に書いた元不登校児をはじめとする「学校ドロップアウト組」が20年の時を経た今、どうしているのかをご紹介したいと思います。

 

共同ブロガーの2人

私はこちらの個人ブログ以外にもう一つ、ネットで知り合った知人と3人でブログを運営しています。

cake-peropero.hatenablog.com

現時点の最新記事が私の公序良俗に反しかねないド下ネタ記事なのでお目汚しになり大変申し訳ないのですが、偶然にも、こちらのブログを一緒に運営している共同ブロガーの2人も昔不登校だったそうです。

カメノセタロウは小学校の頃不登校を経験。その後、中学校高校は休みがち、大学は三回生からの二年間試験以外は1度も授業へ行かず、就活も数社しかせずそのままニート(ここまで本人談)、と言いながらその実はバイトでお金を稼ぎつつ頻繁に海外長期旅行する生活を経て、現在は毎日「誰か養って!」と叫びながら女性のヒモになる事を日々夢見ている会社員です。

高木よーへい(20代男性)は小学校5年生の月に10日程しか登校せず(本人談:ニュアンスがあれやけど不登校期間小5の数ヶ月だけやねん、なおしてもなおさんでもええけど!)の微登校。その後中・高・大を経てメディア関係に勤め現在は某所へ出稼ぎに行っています。

 

友人ピー

またまた共同ブログの宣伝のようになり恐縮なのですが、こちらの記事に掲載した私の友人ピーも中学校から不登校

ピーと私は同じ学校だったのですが、2人とも同時期に中退し、ピーは暫くフリーターを経た(と思う)のちに、昼間部がある定時制の学校に入学。ピーはその高校を、休みながらもすごい根性で6年くらいかけて卒業。アイドルの追っかけやPCのオンラインゲームに嵌りつつも過去にはインラインホッケーロードバイク等々幅広い趣味を持つ会社員。cake-peropero.hatenablog.com

 

友人T

大人になってから知り合った友人のTくん(30代男性)は小学校から不登校そのまま義務教育を行かずに自宅で過ごし10代後半の頃に生まれ育った地方から東京へ上京。某新聞社で働く→とある身体障害当事者と出会い、その当事者宅で住み込み介助者として働く→大阪にて障害者福祉事務所に勤める→そこで偶然出会った障害当事者と共に大阪南部に活動拠点を移してNPOの自立生活センターを設立。現在は一人娘のお父さん。(T君もし見てくれてて間違ってたらご指摘お願いします)

彼は私と同様に、学校へ行っていた時に嫌な思いをしたというよりは『学校へ行かなくなってからの自分に対する周囲の人の手のひらを反すような行為』に対して深く傷つき大きな疑問を抱いて生きてきた人で、彼の不登校の頃の話を聞くと共感できる部分が多々あります。

読書家であり、障害の分野に拘らず人の生き辛さについて幅広い関心と知識を持っていて常に情報のアンテナを張っている人です。

 

通信制高校で出会った友人達

Sちゃん(40代女性)は中学校の頃非行に走り、色々あったそうで。通信制高校から大学進学。現在は2児の母であり、大阪で一番治安の悪い地域の福祉課で相談支援の仕事をしています。

Kくん(30代男性)は、通信制高校在学中に先生からのアドバイスで一生懸命探した「憧れていた職種のアルバイト」が転機となり、その道を目指して大学に進学。自分のなりたかった職業に就きました。

Mくん(30代男性)は、確か通信制高校から私と同じ情報系の専門学校に進学。その後電気回りの修理や施工を請け負う会社を自営で営んでいます。

Tくん(30代男性)は、通信制高校から美容専門学校に進み美容師に。全身タトゥーが物凄いですが、そういう分野?に特化した一部の人達の間では有名なサロン?で現在は全国各地に店舗を構えている代表。たまにクラブDJとかもしている模様(Facebook情報)

数年前の同窓会で再会した、昔はギャルのような子だった女の子達は落ち着いたお母さんになっている人が多かったです。

 

まとめ

と、色々な人の現在を文字にしてみましたが、本当か嘘か分からないような曖昧な情報をイニシャルで記したところであまり意味が無いかも知れないなと思いつつ・・・

あと許可なく勝手に書いちゃってるんですけどみんなごめんね、もしこれを読んでくれててアカン感じだったら連絡ください。

冒頭にも記した通り、このブログを通じて「同じ様な経験をしている人は自分一人じゃないんだ」と、そして「学校行かなくても何とかなる」というのは気休めの言葉では無く本当に何とかなっている人って沢山いるんだなと、そんな風に感じてもらえる事を願いながら、本日はこの辺で。

学校に行かなくなったら知らない人の家に監禁された話 ~内観療法~

登校拒否がなぜ不登校に改名されたのかどこがどう違うのか分からない20年前に登校拒否児と呼ばれていたみつまりですこんばんは。初めましての人は初めまして。

本日は、少し長文ですが手書きの絵を添えて学校に行かなくなった直後の思い出深いエピソードを・・・。

『宝くじが当たったら、どこから話を嗅ぎ付けたのか分からない謎の団体が寄付を求めてきたり、変な人が寄ってきたりする』という話はよく聞くものですが、それと似たような感じで私が学校に行かなくなった初期の頃も、弱っている我々家族の負のオーラを嗅ぎ付けた人々が各方面から寄って来ました。

そして、数々のそれに私達は、中でも特に母親は見事に引っかかりまくりました。

ある時はタンスの上に水らしき物を祀り、山奥に良い祈祷師がいると聞けば私の肌着を持って会いに行き、登校拒否専門の家庭教師を派遣するという謳い文句で高額のペラい教材を売りつける会社と契約を結び・・・。

かくいう私も当時は弱っていたので、母親の知人の熱烈な勧めにより、その知人が崇拝している超マイナーな新興宗教の総本山に連行され、「おや、こんな山奥に大阪城ホールが?」と思う程の巨大なホールで教祖の有難いお話(しかも衛星中継)を聞いたり

なんか畳屋の2階に霊媒師がいるとかで行ったらまじで畳屋の2階にお札の張り巡らされた部屋があってそこでお祓いをされたり・・・。

とか、なんか今になって思えば色々と面白い体験をさせていただいたのですが、その中でも特に強烈だったのが「人の家に一週間軟禁(監禁?)される」という心理療法でした。

※今からこちらに書く体験は実在する心理療法のようですが、経験した私の率直な感想をそのまま書かせていただきますので推進している人におかれましては不適切に感じる部分もあるかと思います、ご了承ください。 

 

監禁は突然に

その日は突然訪れました。

母親から「来週(民間カウンセラー)先生のお宅に1週間泊まってきて」みたいな事を言われ「1週間泊まる・・?それをすればお母さんが満足してくれるのなら行きますですはい(←もう麻痺してる)という事で、私はとある民間カウンセラーのお宅に一週間お泊りする事になりました。

(泊まりに行ってる間はそれを理由に学校行かない事を許されるから良いか)みたいな感じでほぼ何も考えずに翌週訪れた先で待ち受けていたのは、客人に対するおもてなしでもセミナー的なものでもなくまさかの6畳一間での監禁生活。

しかも、そこには全然知らない2人の先客が居ました。当時の私がもしツイッターをしていたら恐らくスマホは取り上げられていたとは思いますが6畳一間に全然知らん人と3人で監禁されて草」とか発信していた事は間違いないと思います。

そこで行われるのが『内観療法』という心理療法だと知ったのは、その場所に着いて、カウンセラーと対面した時でした。

 

内観療法とは

内観療法 - Wikipedia

臨床心理的目的のために応用する心理療法(精神療法)のこと。
母、父、兄弟、自分の身近な人(時には自分の身体の一部)に対しての今までの関わり
・してもらったこと
・して返したこと
・迷惑をかけたこと
の3つのテーマにそって繰り返し思い出す。

と、天下のWikipedia様にも丁寧に説明が記されてありますが、当時15歳の私にしてみればそんなもん知らんがなというお話。

とはいえ一応ここは日本ですし、心理療法とか言ってるって事は多少なりともカウンセラーを名乗るお婆さんも人の事を良くしてあげよう的な気持ちでなんか知らんけどやってくれてるんだよね?別に犯罪を犯した訳でも無いし、6畳の部屋からは出られなくてもその中ではもちろん自由だよね?

なんて思った私が甘かった。

6畳に通された私と2人の他人は、ショボい屏風みたいなつい立てを設置され、そこにできた半畳のスペースに入れられ、今日から一週間就寝とお風呂とトイレ以外の全ての時間をその半畳で過ごせというものすごい謎ミッションを与えられました。

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上からの図、たったの半畳だから横にもなれない。ここで168時間耐久生き地獄レース

で、その半畳で何をするかというと、繰り返しになりますが

母、父、自分の身近な人(時には自分の身体の一部)に対しての今までの関わりの中で
・してもらったこと
・して返したこと
・迷惑をかけたこと

というのを母親の体内からこの世に出た時まで遡って一日中一週間その事について思い出せという事なんですけれども

いや知らんがな

お婆ちゃんがたまに聞きに来るからサボるなよ、ちゃんと思い出した事を言えよと

いや知らんがなと、生まれ落ちた時の事なんて知らんがなと

しかし往年の電波少年よろしく突然知らない所へ連行され半畳スペースに軟禁された15歳の私に脱獄する勇気などなく、母親から「とりあえず一週間やり切ったら最後に偉いらしき人から総評みたいなお言葉が聞ける」と言われ

もうこれ・・よーわからんけどやるっきゃないとなり最後の総評だけを楽しみに反抗的な面は一切表に出さず素直に取り組みました、私ってこの頃からポジティブだったんですね。

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なんていうか、人間って半畳のスペースに屏風で監禁されたらよくわからない派手なお婆ちゃんからの総評を楽しみに生きられるようになるんだな、人間の可能性って凄いなって思いましたよね。

 

今の自分だったら5秒で帰ってると思いますけど、当時の私はよく頑張ったと思います。

よく分からない療法を一週間やりきりました。

一週間経った頃には、私はもうお婆ちゃんからの総評が楽しみで楽しみで仕方がなくなっていましただってそれ以外楽しみないからね。

しかしその168時間に及ぶ努力と期待は微塵に崩れ去る事になります。

私を迎えに来たついでに、私よりも先にカウンセラーから総評を聞いた母親がなぜかブチギレて6畳の部屋に勝手に侵入し私の手を引いて帰ってしまったのです。

いやいやいや・・・何を言われたのか知らんけど、この療法に何十万支払ったのか知らんけど、こっちは168時間やり切ったんですよ、分かりますか168時間を半畳のスペースで過ごしたんですよ何でもいいからせめて総評聞かせてよって思いましたよね。

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 オチの母親ブチ切れエピソードも含めて本当に酷い話ですけど、これは大人になってからの私の「不登校エピソード笑い話部門」の鉄板ネタになったし、こうしてブログのネタにも出来たので、今ではプラマイゼロかなと思っています。

それにしても母親はあの時一体どんな総評を聞かされたのか、この話を思い出すたびに気になっているので、今度改めて聞いてみようと思います。

※2018年1月追記:聞いてみたところ、まさかの展開に。

onorenomai.hatenablog.jp

「そんなに親を悲しませて何がしたいの?」という不思議な質問が凄い腹立つ ~不登校になった直後の事~

不登校になった直後、一番気がかりだったのは自分の事ではなく「我が子が学校へ行かない」という青天の霹靂が受け入れられず錯乱状態になっていた母親の事でした。

母親は、学校へ行かなくなった我が子を前に、錯乱状態で毎日毎日自分を責めていました。

その動揺ぶりは、不登校という世間の常識から逸脱した行為を行っている私ですら(常軌を逸してるな・・・)と思うほどで(もしかしたら母親はこのまま自殺するんちゃうかな)とも思いました。

うちは戸建で2階に自室を与えられていたので、基本的には1日中自分の部屋に居ましたが、母親の事が心配で、夕方になると必ず1階まで音を立てずに降りて行き、リビングの電気が点灯しているか否かで母親の生存確認をしていました。

 

ある日の夕方、リビングを覗くと

普段は電気が灯っているはずの家中が真っ暗

ヤバイと思った私は母親の捜索開始

暗闇で耳をそばだててみたところ、お風呂場付近からシクシク・・シクシク・・というすすり泣くような声が・・・

脱衣所を覗き込んだら、閉め切っている真っ暗なお風呂場の扉の向こうにどうやら母親がいる模様。

(とりあえず声で生存確認出来たけどお風呂場で泣くってどういう心理状態・・・これはこれで怖い。)

とビビりながらもお風呂場の扉を開けたら、お風呂場の床にうずくまった母親が

「全部お母さんの責任なのどうのこうの(←忘れた)ごめんねごめんね」と言いながら泣いていて、その周りを当時飼っていた犬が心配そうにウロウロしていて、うわぁ・・と思ったけどまあ死んでなくて良かったよね、うん。なんて思いつつ呆然としていたら

最悪なタイミングで父親が帰宅。

 

一連の状態の私達を見た父が、私をリビングに連れ戻し、私に一言

 

「(みつまり)は何でそんなにお母さんを悲しませたいの?そんなに悲しませて何がしたいの?」

 

いや、お父さん・・・違いますそれは違いますお父さん、私がお母さんを悲しませたいなんて思ってる訳無いでしょ、むしろ自分の事より心配なんですよ、なぜそんな事を言うのですか?

ていうか私が学校に行かない事の何がそこまで悲しいのですか?具体的にどういったところが涙を誘う感じなんですか?不思議とか物珍しいとかずっと家にいるから邪魔とか目障りとかなら何となく分らなくはないんですけど、なんで「悲しい」のですか?

 

貴方がたは私が学校に行かないと言っただけでそうやって2人してなぜそんなに私を責めて悲しませるのですか?

 

3人しかいない家庭で、しかもこちらは子どもですよ

私があなたの目の前でこうして泣いたって、あなたは母親の味方でしょ

なぜいつもいつも母親の味方に付くのですか?

 

2対1でタッグを組んで絶対的に立場の弱い人を責めて、逆に、あなた方は何をしたいんですか?

 

答:学校へ行かせたい。

 

なにこの禅問答

この頃は、何かに憑りつかれたかのように「学校学校」という大人に囲まれこの世にこんな人間しかいないなら私はこの世では生きていけないなと本気で思っていました。

 

『学校へ行くことだけが生きる全てではない。』

そういう考えを持っている人がいる事、同じような経験をしてきている人達が、本当は沢山いたのだという事を知るのは、ここからずーっと先のお話。

 

 

挫折を強みに弱さを優しさに ~故・金馬宗昭先生に捧ぐ~

不登校だったみつまりですどうもこんばんは、初めましての人は初めまして。

 

こちらのブログは、20年前に不登校だった私が現在絶賛不登校中もしくは超絶引きこもりまくりな貴方や不登校のお子さんをお持ちの貴方、自分も昔不登校だったよっていう貴方に向けて書いています。 

 

本日は、記事タイトルの通り昨年末に他界された恩師についてお話したいと思います。

個人的なFacebookに掲載した文章を加筆修正したものです。

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なぜ良い人ほど短命なんでしょう

いえ、そんな事頭では分かってるんです

でもなんでこうなるのかな、って。 

 

15歳で不登校になり

「学校大嫌い」「教師は利用してなんぼ」

なんて思っていた私が後に恩師として生涯慕う事になった方が、他界されました。

 

ご自身が人生の中で大きな挫折を経験し、ひきこもりとして苦悩してきた体験を、その後の人生の中で最大限に活かして来られた方でした。

 

私達のような「人生ドロップアウト組」を受け入れてくれるような場所がまだまだ少なかったあの頃理解してくれる大人なんて居なかったあの頃に

 

ふと現れて、気付けば
隣に静かに寄り添ってくれていたような人でした。 

 

通信制高校の非常勤講師から教頭を経て、不登校や引きこもりの当事者と、その家族を支援する事業所を立ち上げたばかりで

遺作となってしまった
不登校 ひきこもり こころの道案内』は

昨年の7月が初版で


きっとご自身の中でも、人生まだまだこれからだったのではないかなと思います。

 

数年前に伺わせてもらった『不登校引きこもり親の会』という所で開催された講演会で、先生は自身の経験を語り、現在苦しんでいるであろうまだ出会っていない人達の心を想像し、堪え切れずといった感じで溢れる涙を抑えながら「お子さんがたの辛さをどうか分かってあげて欲しい」と訴えるようにお話されていたのがとても印象的でした。

 

当事者だったからこそ分かる、当事者にしか分からない辛さに寄り添う事の出来る、強さと弱さと途方もない優しさを内に秘めているかたでした。

 

通信制高校在学中
根っから人が集まるところ嫌いのひきこもり体質だった私はバイトだの何だのでまともに通学する事なく、先生にとって私は育て甲斐のない生徒だったと思います

 

一期生として初めて関わった日から、年を重ねるごとにお忙しくなっていった先生にとって、私は何百人何千人と出会ってきた生徒のうちの一人でしかなかったと思います

 

でも、私にとっては
人生の要所要所でふと顔が見たくなるような、そして、数年ぶりに会いに行ったら私の事をちゃんと覚えてくれていて、いつも変わらない笑顔で迎えてくれる
そんな人でした。

 

毎年送ってくださる年賀状には
「元気ですか?また会いたいね!」と
必ず一言を添えてくれていました。

 

通信制高校時代に同級生が他界し、その知らせを聞かされた後、皆が散り散りに教室を出ていく中、まだまだ幼くて、あまりの驚きとショックで涙が止まらずいつまでもその場から動く事が出来なかった私に
「僕も知った時は凄くショックでね・・・」と
私が泣き止むまで、自分の胸の内を語りながら長い時間ずっと傍に寄り添ってくれていたのも先生でした。

 

なんだ、私と一回りも離れていなかったんだなぁ・・・

とか

 

ああ、先生と私が出会ったのは先生が28の時だったのか、あの時の先生は今の私より9歳も下だったんだなぁ・・・

とか

 

生徒の成長も楽しみだっただろうけど
一番の楽しみは、これからまさに
自分が見てきた生徒達と同じ年頃に差し掛かる
息子さんと娘さんの成長だったんじゃないかなぁ
とか

 

回想し始めるとキリがありませんが
先生が他界した衝撃や哀しみを分かち合える友人がいるのも、あの頃、あの場所にいた先生達が私達の関係を繋いでくれたお蔭なんだろうな、と。

 

私は「亡くなった先生の分まで生きる!」
なんて宣言できるような人間ではないし、いまだに人生迷走中ですが

 

弱い分だけ優しくて強かった先生をお手本の一つとして、これからも人と関わり残りの人生を歩みます。

 

先生、また会いたいです。

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金馬先生の生前のご活躍は、私がこのブログを始めようと思った原動力の一つであり、こちらの記事に書いた想いは自分なりの弔いでもあります。

 

というのも、先生が他界された後、有志の方々により先生を偲ぶ会が開かれたのですが、これだけの長文をつらつらと綴っておいて何なんですけれども、当然行く予定にしていた私は当日になりまさかの「理由特に無し」で欠席。

 

自分でも何なのマジアリエナイという感じですが、そんなぐだぐだな部分も含めて自分なんだなと受け入れて、今の自分に出来る事をしていきたいと考えています。

 

世間はお盆という事で、だからという訳でもないのですが・・・僭越ながら、この記事を通して生前の先生の情熱がどなたかに伝われば嬉しく思います。

 

映画『嫌われ松子の一生』についての個人的解釈

不登校児で現けきぺろ共同ブロガーのみつまりですこんばんは。初めましての人は初めまして。

本日は、こちらの映画の解釈を記事とさせていただきます。不登校とあまり関係がないように見えますが、こちらの作品は「多数派からの逸脱、家族との関係性、未発達な自己肯定感・承認欲求、生き辛さ」という不登校と共通するキーワードが多く含まれています。

嫌われ松子の一生

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監督:中島哲也 主演:中谷美紀
原作:山田宗樹(未読です)
※ネタバレ含みますご了承ください。

あらすじは、タイトルの通り松子という女性の一生を描いたものです。もう少し詳細に言うと、いつも一生懸命なのに生き方が下手なあまりに七転八倒する女性の転落人生を描いたものです。

ライブDVD以外はほぼレンタルで済ませるっていうか一度見た作品は付き合い以外では二度以上見る事のない私ですが、この作品は愛蔵版を購入したほど好きな作品。邦画の中で一番好きな作品です。

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でかい

この映画を鑑賞後に閲覧したレビューでは「松子は沢山の人に愛を与えた」との感想が多く見られました。あと「最後の最後で本当の愛を見つけた」とか。
私の感想としては「うーーん、松子の一生があまりにも凄惨だったから美化してあげたい的な心理が働くのかな・・・。」という感覚で。

以下、個人的な解釈です。


松子は「沢山の人に愛を与えた」のか?

確かに過去を振り返ればそうかも知れません、ですが、それは決して松子がマザーテレサのように慈愛の心に満ちていたからではありません。

沢山の異性と関わりながら・・・端的に言うと男をとっかえひっかえしながら生きる事となった結果論です。

松子が愛を与えた理由は「愛を与えてもらいたかったから」彼女は常に愛情の見返りを求めていました。

松子はどうしようもないくらい愛情に飢えていた女性だったのだと私の目には映りました。そして、愛され方を知らない女性でもありました。

 

致命的な父親との関係

その全ての根源は、父親との関係性にあります。
家族の(特に父親の)関心は、幼い頃から病弱だった妹にすべて注がれ(ているように松子には見えた)、何をしてもどんなに頑張っても結局は妹に向かう父親の関心、報われない想いに対する失望。

松子の心は満たされずに育ちます。

「このようにすれば人から愛されるのだ」という成功体験を経ていない為、愛してもらう方法が分からない松子。

松子の愛情の飢えは、例えるなら砂漠に置き去りにされ遭難している人のようなもの。
砂漠で遭難中の人にコップ一杯の水を与えただけではどうにもならないのと同じで、愛情を渇望している松子の心は、その他大勢の中の1人として愛される友情のような関係性では満たされないのです。
他者に対して「父親に求めていたレベルの愛情」を求めます。
そうでないと松子の心は満たされないのです。

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松子が父親を独り占めできたひと時

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それは夢のようで

 

他者との距離感がわからない松子

自然な成り行きとして松子は「相手にとって自分1人だけが特別な存在」として成立しやすい異性との恋愛に溺れて行きます。

誰かに愛されたくて愛されたくて愛されたくて、自分を愛してくれさえするならそれこそ誰でもいい。暴力を振るわれようが愛人的ポジションだろうが暴力団員に謎の密売の役を買わされようがなんでもいいただただ愛してくれさえすれば。

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蹴られても

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殴られても

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もう何が何だか分からなくても

「愛される」という経験を知らない愛され方を知らない松子のたゆまぬ努力は当然ながら全てが場当たり的で空回り。

松子は作中で『なんで?』という言葉を何度も呟きます。

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なんで!

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なんで?

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なんで

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なんで・・・

そもそも他者が「父親の代わり」になどなれる筈無いのです。

頑張っても頑張っても上手くいかない松子は徐々に自暴自棄になって行きます。

私の周りでよく「適切な距離の取り方が分からない人」という表現を聞きます。

おそらく私もそう形容される一人ですが、その様な人には大体これに似通った背景があると考えます。

 

自分を愛する為に必要な事

『自分で自分を愛してあげよう』と言うアドバイスをたまに耳にします。

しかしそれが出来るのは、ある程度他者との相互関係で自己肯定感が育ってからの段階の話であり、地盤に「自分はありのままでも価値ある存在なんだ」と感じる体験があってこそ。

少なくとも作中の松子の心中に関しては、そんな余裕は皆無でした。

周囲から手が差し伸べられ、松子自身がその手を握り返そうとする頃にはもう時すでに遅し。この作品は実に現実的な幕引きを迎えます。私はこの救いの無いラストも含めてこの作品が大好きです。

 

ここからネタバレ大オチ

松子の人生の幕引きとは別で、後半に作品としての大きなオチがあります。

この作中で2時間に渡って語られる松子の人生ですが、その松子の部分の語りの全ては晩年の松子が自分で紙にしたためていたものだったのです。一体誰に宛ててしたためているのかと言うと、晩年に松子が愛したたった一人の人・・・。

そう光GENJIの内海くん」です。

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そう、内海くんです

勿論、ただのいち視聴者でありファンです。

その内海くんに「自分の人生について知ってもらいたいから」と言う理由で、膨大な量の手記を綴り(多分ジャニーズ事務所に)送ります。

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この量しかも手書き。松子は知ってほしいの。

この大オチは実に秀逸で松子の常軌を逸する程の承認欲求の強さがコミカルかつ非常に的確に表現されていると感じます。

 

まとめ

この壮絶な物語を、この色使いでこの世界観で、時にコミカルに時にはMVのようなスタイリッシュなテンポの良い場面展開で、壮絶なリアリティとその対極にあるファンタジーを絶妙に織り交ぜて描ききった中島哲也監督

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↑これからの、まさかのこれ↓のコントラスト

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僭越ではございますが、称賛の意をこめて以下の言葉を献上いたしたいと思います。

 

『狂ってる』

 

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この、愛されたかったのに愛されなかった愛すべき松子の一生

ここまで読んで下さった方がもしいたならば、大オチを知ってしまったかと思いますが、文章では描き切れない部分が多分にある作品ですので、興味が沸いた方がいらっしゃれば是非。

「行きたくない」を「生きたくない」に置き換えて~元不登校の人間より、周囲の人達へ~

 

人間って本当は夜行性じゃないのかなと密かに思っているみつまりですどうもこんばんは、初めましての人は初めまして。

こちらのブログは現在絶賛不登校中もしくは超絶引きこもりまくりな貴方や不登校のお子さんをお持ちの貴方、自分も昔不登校だったよっていう貴方に向けて書いています。

本日は、当ブログのサブタイトル

「行きたくない」を「生きたくない」に置き換えて

についてお話したいと思います。

 

9月1日は『子どもの自殺が一番多い日』という事を皆さんはご存知ですか?

futoko.publishers.fm

www.huffingtonpost.jp

 
これらの記事によりますと、毎年9月1日に100人以上の子どもが自殺で亡くなっているとの事。

それがいじめによるものなのか機能不全家族なのか虐待なのか、何が理由かは明確にされていませんが、原因が学校の登校日初日である事は間違いありません。

私がこちらのブログを開設したのは

自分の命を懸けてまで学校に行きたくないと考えている人の気持ちが分かるからです
私もそうでしたから。

 

学校に行かない

 

たったそれだけの選択・行動で、その子を取り巻く環境の大きな変化、周囲の無意識に発せられる心無い言葉に呑まれ、本人に対して手のひらを返すような周囲の人達の対応に深く傷付き自らの命を天秤にかけてしまう程追い詰められる状況というのが本当に存在します。 

 

不登校の人と対峙した大多数の人がまず考える事は
『なぜ行きたくないのか』『なぜ行けなくなったのか』『どうすれば行けるようになるのか』という事かと思いますが

本人も周囲の人もまずは「登校」や「通う」や「学校」という言葉から解放される事が先決です。

 

多くの保護者がこのような事を言います

(そうは言っても、もし学校から離れる事でそのままずるずる引きこもりになったら・・・)

(学校行かないと将来絶対苦労すると思うし・・・)

(親として子どもの幸せを考えるなら無理にでも学校に行かせるべき)

これらの言葉は、笑い話の一節『健康の為なら死んでもいい。』を本気で言っているのと同義だと私は感じます。

『将来の為に今死ね』と言っているように聞こえます。

冒頭にご紹介した記事にある通り、自殺者数が数字となって証明されているのが現実です。

 

子どもはまず、家庭というコミュニティで社会の第一段階を学びます。その第一段階の世界がほぼ全ての子どもにとって、親の言葉の影響力は絶大なるものです。

学校に行かない事に関して親に気苦労を掛けるだろう事くらい本人は十分なほど分かっています。態度に現れていないように見えても、心の中は痛いほど、それこそ死にたくなる程理解していると思います。現時点で色々な事が上手くいっていないのですから、将来に対する不安だって底無しです。

そこへ「学校に行かなければ将来経歴に傷が云々、そんなに親を悲しませて何がしたいの云々、あなたの為に云々」という言葉がけは、傷に塩を刷り込むどころか抉るようなもの。

本当に子どもが死んでしまっても良いのですか? 

これを読んで下さっている方がもし不登校になっている子の親であるなら、お子さんが生まれた時を思い出してください。

私は子どもを産んだ経験が無いので、想像でしかない上に差し出がましい物言いかも知れませんが、お子さんを出産した直後の気持ちは『生まれて来てくれた』その事実だけに感動し、感謝し「とにかく無事に育ってくれさえすれば」みたいな事を考えませんでしたか?

しかし今はいかがでしょう

「とにかく無事に育って(そして優しく、明るくという程ではなくても良いけどなるべく陰気ではない感じでなるべく健全な友達に恵まれ人を傷つけず迷惑もかけず非行に走らず学校に行き適度に運動もして身心ともに健康で出来れば大学まで出て安定した職に就き自立して適齢期に結婚をして孫の顔を見せてくれて出来れば自分達の老後には多少介護的な事をして)くれさえすれば」じゃないですか?

子どもが死んでしまってはじめて「ただ無事に生きてくれてさえいれば」と思っていた気持ちを思い出しても遅いのです。

とはいえ私の親は、こちらの記事にも書いた通り

onorenomai.hatenablog.com

『学校行かないくらいなら死んでくれた方がマシだ』と本気で思っていたようですし、今も恐らくそのような気持ちなのかなと思いますので本気でそう思うなら否定はしませんが・・・。

 

当ブログのサブタイトルを『「行きたくない」を「生きたくない」に置き換えて』にしているのは、その様な理由からです。

外がなんかスコールみたいになってる

外が今日のような荒天の日は「家に居る大義名分が出来るので安心する」けど、こういう日に限って職場なうな元不登校児だった引きこもり気質のみつまりですこんばんは、初めましての人は初めまして。

本日の大阪は台風5号が上陸しまして外がスコールみたいになってます、大阪って地震も災害も殆ど無いのでこんな台風珍しいです。
という至極どうでも良い事をあんたはわざわざこちらに書きに来たのかと問われたら「ええそうです」としか言いようが御座いませんすみません。

ついでと言っては何なのですが、今一度こちらのブログの趣旨を説明させていただきますね。

こちらのブログは20年前に学校へ行かない道を選択した私が自身の不登校の体験談を語るブログです。

が、思いついたり思い出した事を順不同で掲載しております。
その為、初めに簡単な経歴を書いただけで「不登校になった詳細な原因」や「そこからどういうきっかけで再び外に出る様になったのか」等まだ書けていないし、それ以外の事も思い出した順に自由に書いていく予定ですが、ゆるゆるとお付き合いいただければ幸いです。

それでは、関西地域で今からご帰宅される同士の皆さんの健闘を祈ります。家に引きこもっているかたは応援よろしくお願いします。

ジークジオン!

現在の30代は『不登校経験語り部第一世代』じゃないのかなーなんて事を

おこがましいながらも考えているみつまりですどうもこんばんは。

初めましての人ははじめまして。 

私が不登校になった20年前と現在とでは、一つ大きく異なる点があります。

不登校を経験した大人の存在』です。

すなわち私が10代当時に30代以降だった方々の事です。

私が不登校になった15歳の頃は、まだインターネットの無い時代でしたが、その前身となるパソコン通信で知り合った多くの大人達の存在に助けられました。

「画像も音声も送れないどこの誰だかすら分からない活字のみでしか伝え合えない」という限られた世界の中で、不登校に理解を示してくださり案じてくれる人達に巡り会えた私は、逃げ場のない家の中に唯一の心の拠り所を作る事が出来ました。

なにぶん子どもだったので具体的な事まではあまり覚えていないのですが、それはまさに九死に一生を得た思いでしたうきぴーさえさんそして東海林さん、ありがとう。

中でも特に親しくしてくださっていた方とは、20年経ってパソコン通信というサービスが無くなった現在でも現実世界で繋がっています。

しかし、身近に「自分も昔は不登校だったけど、現在こんな風に何とかやっているから君も大丈夫だよ」という風に話してくれた不登校経験者の大人との出会いは、18歳で通信制高校に入学するまで恐らく殆どなかったような・・・

とにかく前例が無い。仮にあったとしても、こんな風に気軽に情報を発信したり閲覧したりできる媒体がそもそも無かったので情報が共有されない。

その為本人も周囲の人もその選択肢を選んだ先に何があるのか分からない。

だから盲目的に「とりあえず学校へ行くことは正しい事だ」と考えていたような気がします。

現代で言うと何でしょう…良い例えが思いつきませんが、語弊を恐れずに言うならば整形とかレーシックみたいな感じでしょうか?

歴史が浅いから20年30年後にどうなるかは誰にも分からず、それを誰かが試して数十年の時を経て予後が順調である事が実証されて初めて受け入れられる、みたいな。

そんな時代に前代未聞の不登校という道を選択した私達がそこそこ社会経験を経て子どもを持つ親くらいの年齢になったタイミングで、こうして発信媒体までが整った現代は、私の時代には無かった現在進行形の人に「経験者として」寄り添う事が出来る時代だなと感じます。

「私達も貴方と同じように学校に行かない道を選択したよ、物珍しい目で見られたり周りの人に凄く反対されたりもしたよ。でも、今こうして元気で平和に生きてるよ。だから、貴方がもしそちらの道を選んだとしてもきっと大丈夫だよ。」

という様な事を身をもってお話出来るのは、やはり当事者にしか出来ない事だと思うのです。

実際、ネット上ではその様な発信をしている人達が既に沢山いらっしゃいます。

例えばこちらとか

www.futoko.org

この様なクラウドファンディング

readyfor.jp

全国で、不登校経験者が同じ思いをしている人の支えになりたいと声を上げています。

もちろん私も、ささやかながらそのような想いを持つ一人です。

『不登校=親が甘い』という考えが甘すぎる件 ~不登校サバイバー~

高校球児は評価されるのに不登校児が評価されない事に納得いかないみつまりですどうもこんばんは、初めましての人は初めまして。

 

大人になった現在、たまに「昔学校に行ってなかった」という話をすると、学校行ってた派のうち半数くらいの人から
「うちの家は厳しかったから、そんなことしたら叩いてでも引きずってでも外に出されて学校行かないなんて絶対許されなかったと思うわー(笑)」

という反応が返ってくるのも、前回の冒頭に記した元不登校あるあるの一つかなと勝手に思っています。

一応私も社会性を備えましたので、そういう反応を頂いた時は大体
「そうなんだー学校行くのも楽じゃないんだねあははははwwwwwwwwww」

などと返す訳なんですけれども

うちの両親も間違いなく
『学校行かないなんて絶対許さない』という人達でした。

 

学校行かないと宣言した最初の頃は、親に泣きながら私の服や髪を文字通り掴んで引きずり回されましたし、私が学校へ行かなくなって一ヶ月で父親は真っ黒だった髪が真っ白になったし、母親には「学校に行かないくらいなら死んでくれた方がマシだ」とか「貴方がそんな風になったのはお母さんの責任だから一緒に死のう」と言われて寝込みを襲われ本気で殺されそうになった事もありました。

 

それでも私は行かない方を選びました。

 

両親に苦労を掛けた事は今でも申し訳なく思います。

私は両親の事が嫌いなわけではありませんし、もちろん心配などかけたくありませんでした。

私には兄弟がいない為、家族といえば父と母のみ。たった3人のかけがえのない家族、両親にとってはたった一人の娘です。

それなのに、そんな親不孝を好んでする訳がありません。

当時は、自分が不登校になった事そのものよりも、目の前で悲しんでいる両親の姿を見るのが何よりも辛い事でした。


しかし20年経った今になって思うのは

私がただ学校に行かなかっただけで親がなぜそこまで絶望にくれる必要があったのか。

ごめんねと泣きながら寝込みを襲う親まじサイコホラー。

 

言いすぎましたすみませんごめんなさいもちろん今でもかけがえのない家族に変わりはありません。

ですが、それにしても『学校行かないくらいなら死んでくれた方がマシ』って今改めて考えると凄まじい発想じゃないですか?


学校に行かない事は死に値するほど罪深く不幸な事なんですか?

 

冒頭の「うちは厳しかったから〜」と話していた人も、厳しさゆえに『学校へ行かなかったら殺される』という事を本能的サバイバル能力で察知していた為学校へ通っていたのでしょうか?

それとも私は殺されかけたけど死んでいないので、うちの家庭はやはり甘かったのでしょうか?

 

なんて疑問を投げかけてみましたが、答えは明白。

親の甘い厳しいなど関係ありません。

不登校の背景に家庭の機能不全がある事例の多い事は重々承知しています。

でも、家庭の事情や理由が何であれ、学校へ行かない子は行かないし行く子は行きます。

そしてそれのどちらが良いでも悪いでもなく『本人が選択した道』ただそれだけの事です。

 

しかし親が我が子を殺そうと考えるまで追い詰められるのは「学校に行かない=皆と同じ事が出来ない=普通ではない=異常=排除」みたいな連想ゲームのような固定概念が個人の頭の中に出来上がっている事、そしてその固定概念で親まで一括りにして評価されてしまう事にあると私は考えています。

自分や我が子や他者を前述したような理由で評価する事は、時と場合によれば自分自身の首を絞める事にも繋がります。

多数派に属している時には気付かなかった無意識の評価は、立場が変化した途端、回り回って自分を追い詰める結果になります。

私は過去「自分自身が順風満帆な人生を送ってきたのに子どもが突然不登校になって非常に混乱している」という保護者のお話を何度も聞いた事があります、私の両親もそのケースだったのだろうなと、今では思っています。

 

そして、この様な状態に陥っている家庭は現在無数にあると私は考えています。

色んなケースがあると思いますので一概には言えませんが、当時の私は少なからず不登校サバイバーだったと思います。